Team Mono-Blueのブログ

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原子力発電への限りなき情熱

中学受験の時から、つまり小学生の頃から原子力発電所の事やそれが発電に占める割合を教えられてきた。高速増殖炉もんじゅの限りない夢は子供ながらに素晴らしいと感じたし、それが実現すれば無尽蔵のエネルギー源を得て我が国の将来は眩しいくらい明るいと思った。フェニックスという名の同様の増殖炉がその名に反して中止され、もんじゅもボロボロの状態となり現実は厳しい。でも、もんじゅの再開へ動く姿勢は嬉しかったし夢を追い続けて欲しかった。


計画停電に至る現在も原子力発電が生活に欠かせないものであったということを我々は思い知らされている。誤解無いように言えば、何も原子力ありきというわけではないが、現時点で原子力に取って代わる充分な発電手段を我々はまだ持っていない。


福島第一原発の事故は、子供の頃から原子力推進派の僕でも原発について根本的に考え直さなければならない衝撃があった。それは地熱だ風力だ太陽光だとこの期に及んで騒ぐことではない。現実的にも原子力発電の占めるエネルギーをこれらでコストパフォーマンスや安定性も含めて代替するのはもんじゅの夢より困難な道かもしれないと思うからだ。そうではなく、消極的な姿勢で原子力発電を認めつつも代替手段に移行する考えが今は多いかもしれない。ただ、僕はやはり原子力発電の夢をこれで諦めるのはまだ早いと思う。さらなる技術革新による文明の攻勢でこれを乗り切り、増殖炉も含めた開発を進めて安定した電力供給を実現してほしいとこの期に及んでも夢見る。放射性物質浄水場に広がる今、頭がおかしいと思われるかもしれないが。それが日本の産業、生活に欠かせないと思うし技術立国の夢、い唯一のや生き残る道なのではないかと思う。

火力発電が燃料供給面を考えて飛び抜けて安定しているとも思わない。水力、風力、太陽光はなおさらだ。

最後は覚悟の問題。感情的な脱原発は予想以上に少ない。それは震災前まで営んでいた我々の「普通の生活」は原子力なしでは到底維持できないものであることを東日本の国民全員が痛烈に実感させられているからだ。毎日停電があり、満足に暖房もつけられない、電車も少ない。脱原発派の人々もこの生活の中では「原発を無くすいい機会だからもっと停電を」とは言えない。原発の穴埋めをするには途方もないエネルギー源が必要なのだ。

ただし、福島の原発周囲の被害は甚大であり首都圏にも容赦なく放射性物質は降りかかる。復旧や復興にどれだけの時間費用がかかるかわからない。それらのコストを考えると原発という選択肢は後世の歴史家からしたら有り得ないのかもしれない。だけれども我々は今を生きている。生きなければならない。その一点のみでも原子力に価 値がないとは言えない。そうであるなら、今は覚悟を決めて原子力発電の再生に向けて進むのが最善の道ではないかと思う。そして太陽光や風力が原子力に完全に取って代わるとき喜んで原子力発電所を捨て去ろうと思う。


首都圏の人々は予想以上に放射能漏れの被害に冷静だと思う。原子力の恩恵に与ってきた現実を初めて体感し、福島周辺の人々や自分自身にもたしの罪悪感があるからか。今までの自分を棚に上げ原発批判をする程恥を知らない人は少ない。

最後に、僕は自分の街に原発が来るなら必ず黙って受け入れるし逃げもしない覚悟を小学生の時から持っている。昔読んだ「東京に原発を」みたいな感情的な脱原発の本を読んで、子供心にも不快感を覚えたからだ。

多くの首都圏の人々は、少ない電車に揺られ、薄暗く暖房の利かない仕事場で今日も仕事をする。事態の一日も早い収拾を祈りながら。